歌人 道浦 母都子

「全共闘世代の象徴」と呼ばれて

道浦母都子さんの「いばらの道」

 

道浦母都子さんは「全共闘世代の象徴」と呼ばれる。学生運動に身を投じて挫折、その失意と喪失の青春を刻んだ第1歌集『無援の抒情』によって。出版されたのは「政治の季節」がすでに終焉した1980年のことだ。

私が初めて道浦さんに会ったのは2003年。ノンフィクション『百年の恋』を刊行した道浦さんにインタビューするため、大阪府吹田市の自宅を訪ねた。あれから16年、新しい歌集や本が出るたびに取材し、私的な付き合いも続いている。道浦さんの作品や言葉から、半生と文学をたどった。

(田村文=共同通信記者)

 

 数年前、毀誉褒貶の激しいある詩人について、道浦さんに意見を聞いたことがある。道浦さんはそのとき、こう言った。

「あの人は、選ばれてしまったんですよ。時代っていうのは時に、作家や詩人を見つけて名指しする。選ばれた者は、黙って『いばらの道』を行くしかありません」

 それを聞いたとき、ああ、自分のことを言っているのだなと思った。

道浦さんは全共闘運動を生き、歌に詠み、世代を代表する歌人となった。それは、歌人として、あるいは物書きとして、幸運だったのかもしれない。しかし、ひとりの女性としてはどうだったのか。

歴史は「if」を許さない。選ばれた道浦さんは黙って「いばらの道」を歩いた。

 

▽青春の落日

 

1947年、和歌山市生まれ。高校から大阪府吹田市に移り、北野高校に進学。早稲田大学に入学したのは67年のことだ。

「中学のとき、60年安保闘争で亡くなった樺美智子さんの遺稿集『人しれず微笑まん』を読み、大学に進学したら学生運動をしなければならないと考えました。国の進む道を考えるのは学生の義務だと思っていた」

ベトナム反戦運動が激しさを増し、大学生になった道浦さんも当然のようにデモに参加。67年10月8日、佐藤栄作首相(当時)の南ベトナム訪問阻止闘争の中で、京大生の山崎博昭さんが命を落とす。「あれは私だったかもしれない」。山崎さんに自分の運命を重ね合わせ、さらに運動にのめり込んだ。

『無援の抒情』はデモの歌から始まる。

 

〈迫りくる楯怯えつつ怯えつつ確かめている私の実在〉

 

〈「今日生きねば明日生きられぬ」という言葉想いて激しきジグザグにいる〉

 

 70年の安保改定が近づいていた。正義感と焦燥感。運動は過激化し、セクト間の対立の中で、母校に居場所を失う。逮捕されたのは68年末のことだ。

 

〈調べより疲れ重たく戻る真夜怒りのごとく生理はじまる〉

 

〈釈放されて帰りしわれの頬を打つ父よあなたこそ起たねばならぬ〉

 

69年1月の東大・安田講堂攻防戦は、籠城した学生側の敗北に終わる。夜、突き動かされるようにペンを執った。

 

〈炎あげ地に舞い落ちる赤旗にわが青春の落日を見る〉

 

時代に腕をつかまれた瞬間だった。

 

▽書いた責任

 

失意の中で運動から離れる。

 

〈今だれしも俯くひとりひとりなれわれらがわれに変りゆく秋〉

 

大学卒業後、結婚して松江市に引っ越すが、ずっと孤独だった。やがて離婚。

 

〈明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし〉

 

 青春を反芻し、総括しながら歌を詠む日々。一冊の歌集になるまでに、長い時間が必要だった。

80年出版の『無援の抒情』の初版は500部。黒い表紙。ひっそりと世に出たが、現代歌人協会賞を受賞した前後から話題となった。何度も増刷され、書店に平積みされた。

当初、主な読者は学生運動に参加した息子や娘を持つ親たちだった。段ボール1箱分もの手紙が届いた。子どもの気持ちが知りたい。そんな内容のものが多かった。

「この歌集を出したことで全共闘世代の象徴のようにみられるようになりました。そのせいで随分憎まれもした。歌を続けようと思ったのは書いた責任を感じたから。でも、ああのときやめていればよかったと、何度思ったことか……」

 

▽狭まる道幅

 

〈全存在として抱かれいたるあかときのわれを天上の花と思わむ〉

 

 愛への肯定感あふれる歌が収められた第3歌集『ゆうすげ』には、恋の苦しさを詠んだ歌もある。

 

〈君に妻われに夫ある現世は黄の菜の花の戦ぐ明るさ〉

 

「大切な人と出会ったとき、たまたま相手が結婚していることもあれば、そういうことがないまま一生を終える人もいる。私は夫以外の人が好きになったとき、すぐに家を出る決心をしました」

2度目の離婚をへて、ひとりに戻った。

 

〈抱かるることなく過ぎん如月のわれは透きゆく黄水仙まで〉

 

 そんな歌が収められている第4歌集「風の婚」には、年齢が何度か歌に詠まれている。

 

〈今日にして四十二歳のわたくしは行き惑えるか生きはぐれしか〉

 

 ひらかれていると思っていた未来の道幅が急に狭まったように思えた40代。子どもを産んでいない道浦さんが、「タイムリミット」を意識する頃でもあった。

 

〈産むことを知らぬ乳房ぞ吐魯番(トルファン)の絹に包めばみずみずとせり〉

 

「子どもができないまま生きてきたという欠落感を抱えてきました。家にたとえれば『子ども』という名の窓からしか見えない景色があるのに、私はそれを一生見ることがない。命を得て存在するというのはすごいことだと思います。せっかく女性として生まれたのだから、私も命を伝えたかった」

 

〈取り落とし床に割れたる鶏卵を拭きつつなぜか湧く涙あり〉

 

 第5歌集『夕駅』にあるこの短歌に、同世代の歌手、都はるみさんも愛着を持ったという。道浦さんが作詞したはるみさんの曲「枯木灘残照」にも、この歌を取り込んだ。

 

▽試練の日々

 

 歌がどんどん生まれているうちはいいが、徐々に苦しくなる。夜中に水をかぶり、無理やり作ったこともあったが「そんなの本当の歌じゃない。読む人もしんどいはず」。いま抱えている問題や自分の嫌な部分とも向き合うしかないのが短歌だと思う。だから苦しい。

2001年秋、最大の試練に直面する。テレビ出演や雑誌連載など大量の仕事を抱える中で突然、眠れなくなり、食べられなくなった。医師に「3年間は一切仕事をしてはいけない」と言い渡された。「自分がガタガタ壊れていく」感覚、言葉への恐れ。歌が作れなくなった。

 

〈言葉失くし声を失くすということの生きる日にあり山茶花の白〉

 

その後、仕事を再開したが、病との付き合いは現在も続く。

「歌人になる気なんてなかった」のに歌と関わり続けてきた。いまも歌とともにある。それを自分でも不思議だと思う。

2017年に出版した第9歌集『花高野』にはこんな3首がある。

 

〈自らの歌読み返し疲れ果つうたは私の影武者である〉

 

〈「初めの一歩」踏みはずしてより辻褄の合わぬ人生たぶんこのまま〉

 

〈こころ静かにうたに向くときなやましき心ようよう解けゆくなり〉

 

 ▽合同歌文集を刊行

 

今年の新春、道浦さんと「東京の歌の仲間たち」計19人が、合同歌文集『ゆうすげ』を刊行した。20年以上続く東京の「ゆうすげの会」は、現在2カ月に1度の頻度で開かれている。

多彩な顔触れが集まっているのは、道浦さんの人柄ゆえで、合同歌文集が出るのは2度目。そのことについて道浦さんはこんなふうに書いている。

「何とも奇跡に近いことだ。(中略)もっと早く出る機会もあった。だが、二号用に貯めていた資金を、私たちは三・一一に全てカンパしてしまったのだ。(何と気前のいいこと)。ゆうすげの会は、そんなふうに自由で気持ちのよい会だ」

この合同歌文集の中に、道浦さんがそれぞれの歌人の「20首詠」の中から1首を選んだ「ゆうすげ抄」という欄がある。道浦さんが選んだ自身の1首は―。

 

〈終りより愛は生まるるとき寂し笙のようなる海鳴り聞こゆ〉

 

▽大阪にも『ゆうすげの会』があり、2か月に1度の活動をしている。

 

 

【道浦 母都子(みちうら もとこ) 略歴】

 

1047年(S22)和歌山県和歌山市生まれ。大阪府吹田市在住。大阪府立北野高等学校を経て、1972年早稲田大学第一文学部演劇学科卒業。大学在学中の1971年短歌結社『未来』に入会し、近藤芳美に師事。1980年、全共闘運動に関わった学生時代を歌った歌集『無援の抒情』を発表し、第25回現代歌人協会賞を受賞する。「水憂」「ゆうすげ」「風の婚」「夕駅」、エッセイ集等。2008年、和歌山県文化賞受賞。静岡新聞、中国新聞、信濃毎日新聞歌壇選者。2003年から2011年まで、吹田市教育委員を務めた。