数えきれない命を救ってきた
「神の手を持つ男」
心臓外科医 須磨久善先生
「神の手を持つ男」として知られる心臓外科医の須磨久善先生は、世界初の胃大網動脈グラフトによる冠動脈バイパス手術や日本で初めてのバチスタ手術(左室部分切除術)を手がけるなど、これまでに5000例以上の心臓手術を行いました。ほかにも様々な新しい治療法を開発し、たくさんの命を救っています。その活躍はNHK「プロジェクトX」(2001年)で取り上げられ、TVドラマ「医龍」や映画「チーム・バチスタの栄光」の医事監修を務めたほか、ご自身の半生を描いたノンフィクション「外科医 須磨久善」がドラマ化されるなど、メディアでも大きな注目を集めています。数々の業績を持つ須磨先生に、じっくりお話を伺いました。
◀1999年2月、湘南鎌倉総合病院にて冠動脈バイパス手術を執刀する須磨先生
◆誰もやったことがない手術で患者さんの命を救うという覚悟
――これまでの歩みを振り返って、今どのような思いをお持ちでしょうか。
須磨 私が心臓外科医としてやってきた30年あまりは、ちょうど心臓手術による治療や人工心肺などの機器が急速に進歩した時期でした。振り返ってみると、ちょっと特異な時代かもしれません。
人間の身体を切って治すという外科手術の歴史は5000年以上前からありますが、心臓だけは20世紀の半ばまでそれができない特別な臓器でした。心臓は常に動いており、身体中に血液を送る役割があります。そこにメスを入れると人間は死んでしまうので手出しできないという状態がずっと続いてきた。それが、人工心肺の開発によって心臓を止めても身体は生きているという状態をつくることができるようになりました。画期的な時代が1950年代に幕を開けたのです。
そこから、心臓のどこが悪いのかという診断の技術、どうすれば良くなるかという治療法の開発、さらに手術の時間を確保する人工心肺の機能向上がどんどん進みました。それ以前は分かっていても手出しができなかった心臓の病気が治療できるようになり、そうすると才能ある心臓外科医たちが新しい治療法や画期的な手術を次々に報告しました。それがちょうど1960~70年代ごろです。
私は1950年生まれで、医学部を卒業したのが1974年。それから5~6年で基礎的なことを学んで、その後の30代、40代、50代は本当に心臓外科ひと筋で生きてきました。まさにその時期が心臓外科の急成長と重なっていたので、良い時代にめぐり会ったのだと思います。そういった中で、新しい手術法を考案して、学会で発表して、公開手術を行って、ということをずっとやってきました。
――ほとんど先例のないところを何が正解か分からずに進むという難しさもあったのではないでしょうか。
須磨 もちろん、ありました。それは世界中の心臓外科医が向き合う課題でした。教科書に書いてある通りなら助からない患者さんがいる。それを「仕方がない」と思うか、「何とかしたい」と思うか。その方法は当然、教科書には書いてありませんし、誰もやったことがない。そんなことがたくさんありました。今、教科書を開くと人の名前がついた手術がたくさんあります。その人たちは、みんな才能と努力に加えて、覚悟を持っていたのでしょう。
うまくいかずに周りから責められるのがイヤだと思ったら、何もできません。そういう意味で本当に挑戦の時代、激動の時代だったと思います。私も、同じ心臓外科医になるなら誰よりも上手に手術ができて、誰よりも患者さんを治すことができるよう、さらに他では助けられない患者さんを何とか救うことができる方法を見つけたいという気持ちで、ずっとやってきました。それが医者の仕事だし、ある意味で当然のことだと思っています。
――これまでの歩みを振り返って、今どのような思いをお持ちでしょうか。
須磨 私が心臓外科医としてやってきた30年あまりは、ちょうど心臓手術による治療や人工心肺などの機器が急速に進歩した時期でした。振り返ってみると、ちょっと特異な時代かもしれません。
人間の身体を切って治すという外科手術の歴史は5000年以上前からありますが、心臓だけは20世紀の半ばまでそれができない特別な臓器でした。心臓は常に動いており、身体中に血液を送る役割があります。そこにメスを入れると人間は死んでしまうので手出しできないという状態がずっと続いてきた。それが、人工心肺の開発によって心臓を止めても身体は生きているという状態をつくることができるようになりました。画期的な時代が1950年代に幕を開けたのです。
そこから、心臓のどこが悪いのかという診断の技術、どうすれば良くなるかという治療法の開発、さらに手術の時間を確保する人工心肺の機能向上がどんどん進みました。それ以前は分かっていても手出しができなかった心臓の病気が治療できるようになり、そうすると才能ある心臓外科医たちが新しい治療法や画期的な手術を次々に報告しました。それがちょうど1960~70年代ごろです。
私は1950年生まれで、医学部を卒業したのが1974年。それから5~6年で基礎的なことを学んで、その後の30代、40代、50代は本当に心臓外科ひと筋で生きてきました。まさにその時期が心臓外科の急成長と重なっていたので、良い時代にめぐり会ったのだと思います。そういった中で、新しい手術法を考案して、学会で発表して、公開手術を行って、ということをずっとやってきました。
――ほとんど先例のないところを何が正解か分からずに進むという難しさもあったのではないでしょうか。
須磨 もちろん、ありました。それは世界中の心臓外科医が向き合う課題でした。教科書に書いてある通りなら助からない患者さんがいる。それを「仕方がない」と思うか、「何とかしたい」と思うか。その方法は当然、教科書には書いてありませんし、誰もやったことがない。そんなことがたくさんありました。今、教科書を開くと人の名前がついた手術がたくさんあります。その人たちは、みんな才能と努力に加えて、覚悟を持っていたのでしょう。
うまくいかずに周りから責められるのがイヤだと思ったら、何もできません。そういう意味で本当に挑戦の時代、激動の時代だったと思います。私も、同じ心臓外科医になるなら誰よりも上手に手術ができて、誰よりも患者さんを治すことができるよう、さらに他では助けられない患者さんを何とか救うことができる方法を見つけたいという気持ちで、ずっとやってきました。それが医者の仕事だし、ある意味で当然のことだと思っています。
▶2008年7月、第13回日本冠動脈外科学会の会長を務めた須磨先生(左端)と、ゲストとして招いた世界各国の著名な心臓外科医
◆周りからの批判を恐れていては新しいことに挑戦できない
――これまで、たくさんの困難やハードルに遭遇されたと思います。どうやって乗り切ることができたのですか。
須磨 私は別に世界で初めて真っ先にやりたいとか誰もやったことがないことをしようというわけではありません。結果的に一番だったのであって、二番でも三番でも良いのです。ただ、こういう新しい手術が始まるという時に、自分もちゃんとできるよう、少しでも良い結果を出せるよう、しっかり準備を整えておく。そうすると「お願いします」という患者さんが来て、やってみたらそれが最初でしたということになる。その積み重ねです。正直に言うと一番じゃないほうが楽なのでしょうけど、逃げるわけにはいかない。そういうしんどい役回りなのかもしれません。
もちろん、そのような場合に最初からスイスイうまくいくことはありえない。思い通りにならないことがたくさんあって、問題点が浮き彫りになる中で、それらをどう解決するかという工夫を積み重ねていく。そうすることで、この手術はこういう人に向いていないとか、少なくともこれくらいの成功率を実現できるとか、ある程度のメドが立つわけです。1例目から100例目まで成功するようなことなら、もう教科書に書いてあるでしょう。誰も知らない、誰もやったことがない、この手術で本当にどれだけ助けられるか分からない、しかし医学的には命を救える可能性がある、そういう状況で始めるのですから。
――苦しい場面や逆風にさらされることもあったのではないでしょうか。
須磨 表舞台に立つ人間というのは必ず風当たりが強くなるものです。想定内です。それが嫌なら、やらなかったでしょう。人から褒められたいとか、チヤホヤされたいという考えなら、やらないほうが良い。周りにいるのは傍観者です。ゼロから1をつくる時は、誰かが言うからやるとか、逆風が吹いたらやめるとか、そういう問題ではありません。誰も見ていないところでこっそりするなら別ですが、みんなが見つめている中でやるわけですから、いろんな反応があるでしょう。人間の性です。
――日本初のバチスタ手術では、手術自体は成功したものの、結果的に患者さんは肺炎で亡くなってしまいました。
須磨 もし患者さんの家族から非難を浴びていれば、それは苦しいでしょう。しかし、その患者さんが亡くなった後、奥さんは「周りが何と言っても、この手術をやめないでください」と言ってくれました。治療しなければ確実に亡くなってしまう患者さんでしたが、本人と奥さんには手術のリスクも何もかも全て徹底的にお話をして、「手術を受けるかどうかを考えてください」とお伝えしました。そのうえで、お二人で二週間、一生懸命お考えになって、「手術を受けたい」と来られたのです。もう前に進むしかないでしょう。
もちろん私も初めてだから、米国で「心臓外科の神様」と呼ばれていたUCLAの教授と、イタリアで初めてバチスタ手術を行った僕の友人と、ニューヨークのバッファローからもう一人、その手術のため3人のエキスパートに来てもらったのです。まず彼らに「この患者さんにバチスタ手術を行うのは妥当か」と意見を聞いて、それに全員が同意して、みんなで万全を期して臨んだのです。手術は成功し、無事に心臓が動き出して、3人も「うまくいったね」と言って帰りました。その後、患者さんは肺炎を起こして亡くなったのですが、奥さんはそれまでのことを全部ご存知でした。ベストを尽くしたと分かってもらえたからこそ、「先生にやってもらってよかった」という手紙をくれたのでしょう。
その一方で、「売名行為だ」とか「患者を死なせた」などと言う人間はたくさんいました。しかし、そういう人たちに私は何も言うつもりはありません。そのような声が出てくるだろうというのは分かったうえで、手術すると決めたのです。一回やって周囲から批判されたらやめるというなら、初めからやらないほうが良い。そんなものは挑戦でも何でもない。
助かる可能性はあるが答えは見えないという手術に臨むには強い気持ちが必要です。もし準備が不十分だったり、不勉強だったり、手抜きがあったりしたら、それは許されない。しかし、誰よりも徹底的に勉強して、考えられる万全の体制を整えて、そのうえで出した答えなのです。
――大変な覚悟です。なかなか誰にでもできることではありません。
須磨 それも役回りなのでしょう。ただ、医者というのは今日できることを明日もやれば良いというものではありません。医学の歴史とは、古代エジプトの時代から数えきれない先人たちが様々な試みを繰り返し、たくさんのチャレンジの成果が積み重なって、それぞれの分野が分厚い教科書になっているのです。それでも、私たちが教科書を開くと「この病気には治療法がない」などと書いてある。それを知っているからといって、患者さんに「私は教科書を全部読みました。この病気は治せません」と言って平気な医者がいるとしたら、私は不思議で仕方がない。自分の専門領域で治せない病気があるなら、「どうしたら治せるのか」「こういうふうにしたらどうか」と、いつも考えているのが医者というものです。今ある知識を頭に叩き込んで、その技術で病気を治療できるというのは、医者の仕事の半分にすぎません。残りの50%とは、「今できないことをどうやって可能にするのか」というクリエイティブ・マインドを常に持っておくことです。そういう人が歴史上たくさんいたから教科書がこれだけ分厚くなったのです。
◀1998年6月、イタリアにてバチスタ手術についての特別講演を行う須磨先生
◆撮影現場に本物の手術台、手術道具を用意してリアリティを追求
――人気を博した「医龍」や「チーム・バチスタの栄光」など、たくさんの作品で監修を務めていらっしゃいますね。
須磨 ちょうど医療ものドラマが様変わりする時期だったのだろうと思います。それ以前の医療ドラマというと、手術室の場面など本物の外科医が見たら「そんなわけない」という演出ばかりでした。例えば、凄腕の名医が手術をする場面で看護師が汗を拭くというシーンがよくありました。しかし、実際に熟練の外科医が手術をしている最中、汗なんかかきません。手術がうまくできない未熟者が冷や汗をかくならともかく、毎日やっていることを今日もやるだけだし、手術室は温度を下げてあるから涼しいし、そもそも汗が落ちたりしたら不潔じゃないですか。あらゆる点でありえない演出が当たり前のように流れていました。本物を知らない人たちが想像でつくった場面だったのでしょう。
だから、そういうドラマや映画の監修を頼まれた時、私は全部断っていました。ところが、ある時「医龍」というドラマの話が来たのですが、主人公がバチスタ手術をやる医者で、どうしても私に監修を頼みたいというのです。私が断ると他にバチスタ手術をやっている医者はいないから、また想像でつくった場面が流れてしまう。それも困ると思って、「お引き受けしますが、手術の場面は全部こちらの言う通りにしてください」と申し上げたのです。すると、テレビ局は大変なお金をかけてやってくれました。撮影現場に本当の手術台を用意して、自分の手術道具を運び込んで、患者さんを連れてくれば手術ができるという状況をつくったのです。手術の場面の描き方が変わったのはそこからでしょう。その後、テレビ局には医療関係者からもたくさんのコメントが寄せられて、「医療ドラマの水準が上がった」「やっと本物を見られた」と言ってもらえました。
――「チーム・バチスタ」の主人公は須磨先生がモデルとのことです。2010年には、ご自身の半生を描いた「外科医 須磨久善」もドラマ化されました。
須磨 そうですね。「チーム・バチスタ」の原作は医師で作家の海藤尊さんが私を取り上げたNHKのプロジェクトXを見て書いたそうです。私自身は映画版の医事監修を務めることになって初めて海藤さんにお会いしました。私は最初、「チーム・バチスタ」なんて題名の小説が店頭に並んでいたので読んでみたら、登場する心臓外科医が自分に似ているなと思っていました。それで、撮影現場で海藤さんとお会いした時に聞いてみたら、「プロジェクトXを見て書きました」とのことで、納得がいきました。それで海藤さんと仲良くなって、私の心臓外科医としての人生をいろいろ話したら、彼がすごく興味を持って「先生、それ本にしましょう。僕が書きます」ということになったのです。
それで「外科医 須磨久善」という本が出たのですが、しばらくしてテレビ局がドラマ化したいと言ってきました。私の役は俳優の水谷豊さんと決まっていて、彼もぜひ演じたいとのことでした。
――現役の人物を実名で描くというドラマは珍しいのではないでしょうか。
須磨 あまりないかもしれませんね。私も水谷さんと一緒にスタジオへ入りましたし、ローマでのロケにも同行しました。水谷さんは私の1年下で同年代ですが、本当に才能のある方です。セリフは全て頭に叩き込んであって、スタジオには絶対に台本を持ってこない。私の手術を何回も見学に来られて、外科医としての気持ちや振る舞いだけは私からアドバイスしましたけど、それでちゃんと演じきりました。英語も上手だし、本当に一流の役者さんです。一緒に食事もしたし、プライベートでざっくばらんにいろんな話をして、率直に語り合えたのは良かったと思います。
◆人の命を救う医師というのは本当にやりがいのある仕事
――昨今、日本の医療については様々な課題が議論されていますが、どのような展望をお持ちでいらっしゃいますか。
須磨 これまで講演や公開手術などで世界の40カ国ほどを回って実際に医療事情を見てきましたが、やはり日本の医療は極めて高いレベルにあると思います。保険制度によって患者さんが負担する医療費は少なくてすむし、一流のスペシャリストの治療を受けるために特別料金を支払う必要もありません。世界的にみれば、日本の国民が医療という面において恵まれた状況に置かれていたというのは、これまでのところ間違いありません。
ただ、これからは保険制度の維持が課題になってくるし、地域によっては医療におけるマンパワーの問題が生じるでしょう。それらの問題は、今もう目の前に突きつけられています。10年、20年後に今と変わらず世界でも医療に恵まれた国と言えるのか、それは分かりません。
――医師というお仕事は大変な激務で、働き方の問題も指摘されています。
須磨 分野にもよりますが、とりわけ外科、救急、小児科、産科は本当にきつい。だからといって給料は変わらないので、結局は現場の人間の責任感と患者さんへの思いに頼ることになっています。でもやっぱり、命に関わるような状態の患者さんを治療して、また元気になって家に帰れるようにするということを経験すると、そのやりがいは格段に大きい。みんな、そのあたりで納得しているのかもしれません。
そういった状況は、いわゆる「働き方改革」の観点からすると良くないのかもしれません。しかし、「午後5時になったので帰ります」と言って医者が手術をやめるわけにはいかない。本人にしても、自分の診ている患者さんが生きるか死ぬかという時、やはり自分がそばにいて治療を尽くしたいという思いが絶対ある。
昔は、私も「患者の具合が悪いから家に帰るな」と言われたものです。患者さんが寝ているICUでベッドの隣の床にシーツを敷いて私も横になり、モニターを見ながら1週間ぐらい寝泊まりしたこともあります。自分の命を削っているようなもので、ちょっと行き過ぎでした。医局の誰かが「ちょっと休めよ」と言えばよかったはずですが、あの頃はみんなそんなものだと思っていた。あれは良くなかった。
――何十時間も寝ていない当直明けで心臓手術を行うこともあったのですか。
須磨 それが不思議なことに、集中するとできるのです。最高の緊張状態に自分を置くとカッと目が冴えて、眠いとかトイレに行きたいとか、そんなことは何も考えない。ただ、それは麻薬みたいなもので、身体には良くないのでしょう。手術がうまくいって、患者さんがICUに入った途端、ドッと疲労感が襲ってくる。とはいえ頭はガンガンに冴えているから、心地よい眠りにつくわけでもなく、いわば自分の身体が滅びていくような実感がありました。だから、そういう働き方は良くない。
厚生労働省が言うように、医者自身の健康管理もきちんと行うべきだというのは、間違っていない。ただ、目の前で患者さんの命が浮き沈みしている状況で、そう簡単に「後はお願いね」とは言えないこともある。そのあたりのほどよい仕組みをどうつくるのかが、今後の課題です。
――最後に、これからの社会を担う次世代、とりわけ医療に携わる若者たちへ、メッセージをいただけますでしょうか。
須磨 私としては、今も医学部を目指す若者がたくさんいるということを大変うれしく思っています。やはり、なり手がいないとどうにもならない。これは医療従事者だけでなく、行政にとっても、さらに国民全体にとっても大切なことです。もしこれが減り始めたら危機的ですよ。
医学部を目指す受験生たちは、もちろんまだ自分の手で人の命を救ったことがないでしょう。それが、医師免許を取って医療の現場へ行けば、勉強しながらも患者さんの治療に取り組んで、悪かった方が元気になって、退院する時は「ありがとう」と言ってくれる。その実体験をすれば、これは本当にやりがいのある仕事だというのが、すぐに分かるはずです。
【須磨久善(すま・ひさよし)先生 ご略歴】
心臓外科医。1950年、兵庫県生まれ。1968年、甲南高校卒業。1974年、大阪医科大学卒業。虎の門病院、順天堂大学での外科研修などを経て、米国ユタ大学心臓外科へ留学。その後、三井記念病院心臓血管外科部長、ローマ・カトリック大学心臓外科教授、葉山ハートセンター院長、心臓血管研究所スーパーバイザーなどを歴任した。現在は東京・代官山にて須磨スクエアクリニック院長を務め、順天堂大学医学部客員教授、香川大学医学部臨床教授なども兼任。胃大網動脈グラフトによる冠動脈パイパス手術(1986年)、日本初となったバチスタ手術の実施(1996年)など、数多くの業績を持つ。2010年、日本心臓病学会栄誉賞を受賞。著書は「タッチ・ユア・ハート」(講談社)、「医者になりたい君へ」(河出書房新社)などがある。