医療と教育は私たちに欠かせない社会的共通資本

医療と教育は
私たちに欠かせない社会的共通資本

 

~戦前戦後の医療史と近年の医学部指向をめぐって~

  兵庫県医師会名誉会長・同顧問       

     川島 龍一先生 

  灘中学校・灘高等学校校長
     和田 孫博先生

医療と教育は私たちの社会や暮らしと密接に結びついています。それぞれが担う責務と果たすべき役割はさまざまですが、今回の対談では川島龍一先生には医師としての立場から、灘中・高校校長の和田孫博先生には近年における医学部指向の高まりについて教育現場での受け止めを中心に語りあっていただきました。

――川島先生は「医療は社会的共通資本である」ということを述べておられますね。
川島 少子高齢化社会の我が国では、お年寄りから幼い子を持つ若夫婦まで、国民大部分の最も大きな関心事の一つが、「いつでもどこででも安心して医療が受けられ、何かあればすぐに入院できる体制」の確保です。また、大災害等有事の際にまず求められるものは医療であることは、阪神淡路大震災で経験済みです。このように社会の安定・維持に必要欠くべからざる医療は、まさに宇沢弘文先生の説く「社会的共通資本」です。
和田 いまご紹介のあった社会的共通資本の定義から言えば、私も携わっている教育現場もそのひとつになるかもしれませんね。
川島 その通りです。実は震災時、消防士や医師のほかに、真っ先に活動されたのは、校長先生や教師などの教育現場の皆さんでした。避難所となった学校に泊まり込んで、あふれる被災者のお世話をされたんです。教室や体育館は避難所となっただけでなく、一部は震災で犠牲者となられた方々のご遺体を収容する場ともなりました。したがって、我々が行った検死のお手伝いもしていただきました。平時においては、学童児一人一人について、子供たちの置かれた先天的、歴史的、社会的条件の枠組みを超えて、あらゆる人間的活動の面で、進歩と発展を可能にしてきたのが教育の役割で、最も重要な社会的共通資本の一つと捉えられています。


昭和戦前期の医療事情

――川島先生は戦前の医療事情についはどうお考えですか?
川島 わが国には誰もが平等で安全・高度な医療を受けられる国民皆保険(昭和36年成立)という世界に誇ることができる制度がありますが、戦前には医療保険制度が未整備ですからほとんどの国民にとって医療は身近なものではなく、病気になると費用を工面するのに大変でした。
昭和4年ニューヨークのウォール街での株価大暴落を受け深刻な世界恐慌となり、我が国でも特に農村部の経済的困窮は著しく、一家の長が病気にでも罹るものならたちまち借金が嵩み、挙げ句の果てには娘を売るか一家心中をするかという事態が日常茶飯事化しました。兵士供給の大部分を農村に頼っていた軍部は、農村地域の疲弊により健康で屈強な農民を得ることがおぼつかなくなり、慌てて農民を医療保険に加入させ医療費の負担を軽減し、健康な農民兵士を育てようと、国民健康保険の創設に動き出したのです。昭和13年(1938年)に厚生省が新設され、国民健康保険制度が一部スタート致しました。
和田 健康医療保険制度は兵隊さんを確保するうえで欠かせなかったというご指摘は興味深く思いました。お話をお聞きしていて思ったのは健康保険制度の整備と戦前の教育制度は、ある意味で軌を一にしていることです。
明治政府は1872年に学制を公布しましたが、これはすべての子供たちに就学義務を課したもので、児童はそこでは読み書きやそろばん(計算)の修得、挨拶の励行、(目上の人である)教師の指示に従うこと、集団生活を営む一員であること、そのために規律を守ることなどを教えられて人としてあるべき自覚を促され、みんなとともに成長していきます。それは兵隊になった時に身につけるべき必要最低限の条件でもあったわけですね。


戦後における医療環境の整備

――戦後になって国民皆保険制度(昭和36年)がスタートしましたが、私たちの医療
環境の整備についていかがですか?
川島 終戦後の数年間は社会的混乱期問と言ってもよい状況で、食料を含むすべての生活物資は配給制でしたが充分な量では無く、人々は食料や生活物資を求めて闇市に群がりました。栄養状態が不良なうえに医薬品も絶対的に不足していました。その上中国や東南アジア等海外から兵士や開拓団の民間人合わせて約660万人もの日本人が続々と帰国し、これらの人々が外国の伝染病を持ち込んでしまうので、この当時の日本の保健行政は、コレラ、赤痢、腸チフス、天然痘、ジフテリア等の急性伝染病との戦いを強いられていました。
 一方、不治の病としておそれられていた結核も猛威を振るい、昭和28年の患者数が292万人にも上りました。昭和24年、結核の特効薬であるストレプトマイシンがGHQを通してやっと我が国に輸入されましたが、わずか5000人分の量でした。
和田 私は小学校時代に給食で育った世代ですが、昭和30年代の後半になって高度経済成長時代に移行する頃から栄養状態が目に見えて改善したように思います。
現在のようなダイエット全盛の時代には想像できませんが、もっと太りましょう、を宣伝文句にした『フトルミン』などという商品がありました。少しでもふくよかに見えることが健康のバロメーターだったからです。身長と体重が平均以上の小学6年生を表彰する健康優良児制度もありましたね。
 小学校時代で忘れられないのは虫下しです。マクリと言って体内のカイチュウやギョウチュウなどの寄生虫を駆除するものですが、これがとても苦くてね、子供心にもつらいものがあり、忘れられません。マクリを飲んだあとは飴玉をもらうのですが、それを楽しみにしていたほどです(笑)。
川島 懐かしいですね。マクリは海人草を乾燥させたもので主成分はカイニン酸という駆虫剤ですね。私もマクリを飲みました。あの頃の子供たちにとっては虫下しが小さい頃の思い出として強烈に残っているのではないでしょうか。
和田 高度経済成長時代の結果として生まれたのが公害問題でしたね。
川島 メチル水銀中毒による水俣病、カドミウム汚染によるイタイイタイ病など工業廃水に由来する公害病、排気ガスや工場排煙に伴う四日市喘息や光化学スモッグ等、いずれも急速な経済成長が生んだものですが、同時に多くの人びとが日常生活における健康ということを重視し、考えるきっかけになったとも言えます。
 その他、厚生行政の怠慢から生じたサリドマイド奇形児の発生や、血友病患者の薬害エイズ事件等、数多くの薬害も生まれています。 
和田 メディアでも医療や健康の話題が取り上げられることが多くなり、健康食品やサプリメントも市場にあふれていますね。いまほど健康への関心が高まった時代はないかもしれません。それとともに医師の存在もクローズアップされ、受験でも医学部指向が高まっていくようになりました。


 

近年における医学部指向の高まり

――いま、医学部指向の高まりというお話がありましたが、医学部を目指す若者の増
加は国公立・私立大学に共通していますね。
川島 多くの若者が医学部を目指すのは歓迎すべきことですよ。
和田 そうですね。昔は同じ理系でも工学部に進む人が多く、医学部はそんなに人気は高くなかったように思います。たしかに最近は医師を志す若者は増えているのですが、これには二つの理由が考えられるのではないでしょうか。
 ひとつは、難治性の病気治療や手術などを通して人の命を救うという高邁な精神を持ち、患者とその家族のために役立つ職業に就きたいという具体的な意思を持った若者が多くなったことです。
もうひとつは職業の選択に関わることですが、ほとんどの人は大学に入った時点では自分の将来の方向をイメージしにくい。しかし、早くから医師を目指している人の場合、白衣を着ている自分自身の姿を思い描きやすいということがありますね。
川島 私が医学部で学んでいた頃を振り返ってみると、一番大きく違うと思うのは医学生として身につけるべき知識の量が増えたことです。それはもうケタ違いに多くなりました。たとえば当時は遺伝子工学なんて分野はありませんでしたし、免疫学なども新しい知見がどんどんと追加されています。教科書も実に分厚く、内容も広くて深い。
でも、だからと言ってそれにひるんでも仕方がない。そこに書かれていることを積極的に吸収し、研修医として臨床の現場で具体的な形で実践していく、そうした姿勢が何よりも大切だと思います。それが医師となる道だからです。
――灘高でも医学部を目指す生徒が増えていますか?
和田 本校でもその傾向は顕著です。ただ、ご両親の意向がある場合は別として、最初から医師になろうと思って入学するケースはそう多くはありません。また、在学中も医学部への進学をとくにサポートするような指導はしていません。あくまでも本人と保護者の意思に任せています。
川島 私の頃は医学部の学生はほとんど男で女性は1割もいませんでした。いまは医師を目指す女性が多くなりました。国公立では3~4割は女性でしょう、私立はもっと多くて男女半々くらいかな。ただ、東大や京大の医学部はまだまだ女性は少ないですね。でも、これからは女性が増えていくでしょうね。
和田 よく「理数系の学問は男性のほうが得意」「数学や物理の世界は男性の聖域」などと言われるのですが、理系の女子学生や理系の進路を目指す女子中高生など、リケジョ(理系女子)の登場でそうした先入見は修正され、境界がなくなりつつあるように思います。
一般論として申し上げるのですが、発想力や抽象的な図形を読み取る力は男性が優れていますが、医学や薬学など知識をしっかりと身につけて活用する医療などの分野は女性のほうが適性は高いんじゃないでしょうか。


医師として求められるものとは

和田 教育における教師と同じように医療に関わる医師も最終的には人と人が対峙する職業なんですね。具体的には患者さんと接する仕事です。それに向いているのかどうか。これほど個人の適性が問われる仕事はありません。
最近はIT(情報技術)医療も教育も人間を対象とした仕事であると言うことです。今後はAI(人工知能)が雇用を奪うと言われていますが、医師や教師など一人ひとりに向き合う職業がなくなることはありません。そこに自己実現の可能性もあるわけです。もし医学部を指向されているのであればそうした思いを堅持してほしいと思います。
川島 医師になることを目指して医学部を志望する若い人が増えているということは、医療が重要な社会的共通資本であるという認識が根づいてきたことであるのかもしれません。社会的共通資本を担う人材はどんな時代でも必要ですし、欠かせない存在です。とくに医師であれば有事の際に真っ先に行動することが求められます。それは阪神・淡路大震災、東日本大震災でも実践されています。そうした自覚を強く持って医師になる夢を実現して欲しいと思いますね。

 


■川島龍一先生の経歴
昭和44年に神戸大学医学部を卒業。神戸市東灘区医師会会長、神戸市医師会会長を経て平成16年から日本医師会理事、同22年に兵庫県医師会会長、日本医師会監事を務める。専門は外科、整形外科、リハビリテーション科。昭和史における医療問題や災害時の医療をテーマとした講演も多い。灘校校医。

 

■和田孫博先生の略歴
昭和51年に京都大学文学部を卒業。母校である灘中・高等学校の英語教師として赴任し、英語を教える傍ら中学及び高校野球部の監督と部長も務めた。平成18年に同校教頭、同19年には同校校長に就任して現在に至る。共著に『教えて! 校長先生―「開成×灘式」思春期男子を伸ばすコツ』 (中公新書ラクレ)がある。